身体性を伴いアートに越境するグラレコの可能性
もう数年、グラフィックレコーディングについての身体性をぶっております。10日ほど早いですが、メリークリスマス!!
こちらはグラフィックレコーディングAdvent Calendar2020
12/15参加記事です。(わなみんいつもありがとう!)
さて今年の身体性は「ついに飛び出してみたよ!」編です。
まずこちらの動画をぜひご覧ください。
Wacom connected ink 2020でのビジュアライズ
※概要がちょっと違ってるので、本来の説明は英語版が正しいですね。
こちらのイベントで即興性の高いグラフィックレコーディングをしてきました。
リアルタイムでその場で描くことは常ですが、ここではトークセッションがまさにJAZZのセッションのように繰り広げられる計画でした。
2社の代表者と、日本フィルの即興演奏、そしてビジュアライズというコラボレーション。何が話されるのか? どんな表現ができるのか? 一緒に現場に入ったカタギリショウタさんと、ワクワクしながら当日を迎えました。
※動画では20分過ぎあたりで2人で壇上へお邪魔します。
続きを読む猫との仮暮らしを始める記
ようやく保護猫をむかえるタイミングが来た
かねてから猫を飼いたいとは思っていて、去年秋にはペット可物件に引っ越した。他に優先させる条件を気にしないで決められる自由って素晴らしい。
猫をむかえるなら保護猫を、ということも随分前から決めていた。
地域猫は少なく、調べると近場の保護活動先ではコロナの影響もあって譲渡会開催が難しいようだった。重ねて一人住まいでのOKは得にくい団体が多い印象。
しばらく里親募集を見てなかったのに、ふと思い立って覗いたら、一人住まい可な猫たちがいた。
中でも目に止まったのは、この丸まった足先を持つ靴下を履いた猫。
よく無事でしたね
仔猫期に事故でケガをしているところを保護された猫だった。左前肢の粉砕骨折。整復手術は行われたものの、肘から先には麻痺がある。とはいえ今となっては麻痺してることも、本人は当然のものとして過ごしているので遊ぶときもシュッと左手を繰り出す。見事なもんです。
退院後は保護主さんのところで先住の老犬とのびのび暮らしていたそう。反面、他の猫と育ってない&仔猫期に身につける力加減が備わってない(仔猫期に育成される社会性が乏しい)ということで、噛む力がだんだん強くなるらしい。
幼少期に同年代と育む社会性が欠けている……どっかで覚えがある話ですわ。
お見合い、いらっしゃいませ
里親へのステップとして、まずお見合いということでやってきました。既にドアの向こうでヴミャーヴミャーと野太い鳴き声を上げていた。キャリーがイヤらしい。
保護主さんと話している間も「出せ!」アピールが強く、「家は全然構わないし、自由に見てもらえるようにしているのでどうぞー」と出してみると、速攻でソファの下に駆け出していった。
好奇心バリバリの元気な猫。
歩き方の特徴についても保護主さんから説明を受けた。左前肢の甲をスリスリするような歩き方をする。猫特有のテテテテテ……という感じではなく、スルリスルリとした歩き。でもダッシュする。器用だ。
ただ常に甲を擦るので、あまり放っておくと擦り傷ができてしまうかもしれない。(麻痺してるので感覚がないし)そこは注視しておきたいところ。先々固定手術もあるかもしれないけれど、そこは獣医さんとも相談しましょうということに。
きっと何かを招く左手なんだろう
しかしこの麻痺してる肢、随分と愛嬌のあるカタチになったもので。爪切りの話をしながら、麻痺した足先をふにふにとしていた。この部位も元気に育って欲しいな。
リビングをうろうろ、机にヒョコっと顔を乗せたり、本当に警戒心が無いというか、面白がりというか。
保護主さん曰く「猫らしい颯爽さがあんまり無いんですよ、運動能力がちょっと低いかも」と。でも4〜50cmぐらいはポンポン飛ぶので、上から潜るカタチのお手洗いも大丈夫らしい。颯爽さが無いとか言われてますが、何食わぬ顔。
というか、遊んでて思ったけど、この猫すっごく犬っぽい!!
猫の遊び方じゃない、嚼み方が子犬のそれ。(まだアマガミで済んだ)すばしっこそうに動くのも、なんかちょっとモソっとした感じがあって、じゃれて遊んでる犬みたいな猫。
保護主さんも「この猫は〜」って話すつもりが「犬」って言っちゃうぐらい犬らしい猫。一挙両得じゃないか。
そういえば、左手を挙げている招き猫は「人を招く」らしい。千客万来とな。ありがたいねぇ、お客さんぜひ呼んでいただきましょう。
書き残しておこうと思った、最初の気分
ものぐさが久々にブログかこうと思ったのも、なんっか今すごく不思議な気持ちなのです。
もっとこう「うわーかわいいー!!」みたいな感じになると思ってたんですよ。「ぎゃんかわやないか!うちの子になってくれ!!」みたいな超メロメロを想像してたんです。
が。
本人(猫)と対面したら、「おぉ、よう来はったね」みたいな感じで。
可愛いは可愛い。そりゃあもう可愛い。でもなんだか愛玩する対象に見えない。「君は君でゴキゲンで過ごしとってね、私も私でゴキゲンに過ごすから」という、頼もしく自立した感じの若人を前にした感じ。(ある意味ヒモだ)
保護主さんには、保護猫をむかえるにあたっての気持ちというか、経緯も話をした。
コロナ禍による自粛で一人でいる生活が辛いという人もいる中、全然平気で暮らしていること。
ただ、自分の生活を構う関心が激減してしまったこと。例えば、必要なオンライン会議やイベント、外出に備えた身繕いはするものの、「うっかり食べなさすぎる」話をした。
人語を介さず、ままならない相手の健康管理を意識して生活をすることで、自分の生活を少しはマトモに維持することに繋がるんじゃないかと考えてる。なんてふざけたことを伝えた。
そんな経緯、怒られたらゴメンナサイと里親になることを諦めるつもりだった。
保護主さんがこのあたりよく理解して下さって、「自分のために頑張れなくても他者がいると違いますよ」と。ご自身の活動も新しい出会いや楽しさがあるから続けているとおっしゃっていた。自分が色々与えてもらっているとも。納得しかない。
「もうギリギリ仔猫な状態を終える頃になってしまって、仔猫っぽくないんですが大丈夫ですか?」
と言われたものの、そんなの全く考えてなかった。
そりゃあ仔猫は可愛い。でも、少し大人になっていたから迎えないという理由にはならない。
初めて猫をむかえるなら、急な病気、その病変の速さから仔猫にはかなり意識した飼育が必要なので、初めてにはちょうど良いかもしれないと言ってもらえた。
明日から仮同居開始。
さてどうなることやら。
「ヒトはなぜ描くのか?」を終えて思う、社会における保健室的な何か
昨夜はこちらのイベントで、グラグリッド(黄色い方)のメンバーとしてガヤったり描いたりしておりました。
見事に興奮さめやらぬ状態で色々考えておりました。
ノートに文字を書き留める以外に、太いペンを持ったその最初の一歩。当時何が怖かったか、ハードルに感じていたか?を少し思い出した。
イベント中の発言にあった「描けばいい」には語弊が生まれそうだけど。「ペン持ちゃええやん」では全く無くて。当時自分が紙にもペンにもハードル感じていたように。今同じような不安がある人に、怖くないよって伝えたいところでもある。
主旨とは違うので、そこを深めきるという会ではなかったものの。不安を持ちっぱなしのままスタートに立って踏み出したから、今もある。
泳げなかった時、プールの水に顔つけるのも怖かった。鼻から水入るし。
でも顔をつけて、体を水に預けて、浮けることを知ったら。ビート板とか使って進める距離が伸びたんだったなぁ。(現在水は全く怖くないものの、息継ぎができないという別の未解決課題有り)
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「枯花」展に思う、枯れゆくことは侘びしくも哀しくもないということ
私たちの仕事を記録するフォトグラファー逢坂憲吾氏の個展にお邪魔したのは、もうひと月も前のこと。
ゆっくりと染みていくように、言葉にするまで時間が掛かった。
DMの段階から、主体性を持って現れている花の姿に、「主人公たる花」として、美しいなと思ったのが最初の印象だった。
展示会場で最初に現物を観た時は、1m×1mとは思えない存在の親密さ。圧倒感を持ってドンと現れると思っていた予想はすぐに消え、じわじわと醸し出される個々の花の存在感に、じっと見入っていた。
作品は、鑑賞者が観たいように観て、感じたいように感じるほか無いもので。それが鑑賞者の高慢さでもあり、業でもあるように思っているのだけれど。
そこに時折ステイトメントというものは、その感じたいような感じたさを薄れさせることがある(好物でもあるのだけど)。今回はそれが無い状態だったので、静かに対峙しながらその「枯花」を感じていた。
主人公だと思っていた花の背景は、それぞれにどんな花であったか、どんな状態にあったかを作家である友人から聞くことができた。
花として在ることで写ったもの。その場においてひたすら被写体としてある状態。生活の中で移り変わりを経て被写体となった状態。それぞれにあった。
枯花が見せてくれるのは、時間の経過の一瞬を切り取ったことではなく、その時間とともにあった姿と、その後にも枯れながら続いたという時間の流れる線でもあった。
その線に、何を投影していたのか。
同じように帰ることは無い時間の不可逆性。そこを追うように、自分たちもスマホなり文なりで、何かを繋いでいるのかもしれない。
過去を思うこともあった。今を感じることもあった。
でも一番大きかったのは、こういう風にこの先在れるとしたら、それはとても理想的だなぁということ。
憧れと言うよりも、いずれそこに行けるように生きていくねと、その花に伝えるような気持ちで会場をあとにした。
作家性というのはハードコアなもので。見せたい見せ方を追究すればきりもない。その限界をどう捉えていくのか。収まるように収めていったのであったなら、受け手としてこれだけ昇華に時間も掛からなかっただろうなぁということを勝手に思う。
可憐であれ。堂々としているようであれ。立ち姿は生き方から立ち上ってくるのかな。
これからもまた、観ていたいなと思う枯花でありました。
で。
先日公開されたこの生々しい現実の話……!
つくづくハードコアだ!!