「枯花」展に思う、枯れゆくことは侘びしくも哀しくもないということ
私たちの仕事を記録するフォトグラファー逢坂憲吾氏の個展にお邪魔したのは、もうひと月も前のこと。
ゆっくりと染みていくように、言葉にするまで時間が掛かった。
DMの段階から、主体性を持って現れている花の姿に、「主人公たる花」として、美しいなと思ったのが最初の印象だった。
展示会場で最初に現物を観た時は、1m×1mとは思えない存在の親密さ。圧倒感を持ってドンと現れると思っていた予想はすぐに消え、じわじわと醸し出される個々の花の存在感に、じっと見入っていた。
作品は、鑑賞者が観たいように観て、感じたいように感じるほか無いもので。それが鑑賞者の高慢さでもあり、業でもあるように思っているのだけれど。
そこに時折ステイトメントというものは、その感じたいような感じたさを薄れさせることがある(好物でもあるのだけど)。今回はそれが無い状態だったので、静かに対峙しながらその「枯花」を感じていた。
主人公だと思っていた花の背景は、それぞれにどんな花であったか、どんな状態にあったかを作家である友人から聞くことができた。
花として在ることで写ったもの。その場においてひたすら被写体としてある状態。生活の中で移り変わりを経て被写体となった状態。それぞれにあった。
枯花が見せてくれるのは、時間の経過の一瞬を切り取ったことではなく、その時間とともにあった姿と、その後にも枯れながら続いたという時間の流れる線でもあった。
その線に、何を投影していたのか。
同じように帰ることは無い時間の不可逆性。そこを追うように、自分たちもスマホなり文なりで、何かを繋いでいるのかもしれない。
過去を思うこともあった。今を感じることもあった。
でも一番大きかったのは、こういう風にこの先在れるとしたら、それはとても理想的だなぁということ。
憧れと言うよりも、いずれそこに行けるように生きていくねと、その花に伝えるような気持ちで会場をあとにした。
作家性というのはハードコアなもので。見せたい見せ方を追究すればきりもない。その限界をどう捉えていくのか。収まるように収めていったのであったなら、受け手としてこれだけ昇華に時間も掛からなかっただろうなぁということを勝手に思う。
可憐であれ。堂々としているようであれ。立ち姿は生き方から立ち上ってくるのかな。
これからもまた、観ていたいなと思う枯花でありました。
で。
先日公開されたこの生々しい現実の話……!
つくづくハードコアだ!!