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メタルは文学「ヘヴィ・トリップ-俺たち崖っぷち北欧メタル!-」
Died and Gone to Valhalla
グラフィッカーとして意識したい身体性
メリークリスマス・イヴイヴイヴイヴ!
こちらの記事は、グラフィックレコーディング2 Advent Calendar 2019 の21日目として参加しています。
このアドベントカレンダーは、グラフィックレコーディングに関心がある人、実践している人たちが、ひたすら「グラフィックレコーディング」という共通お題を元に、思い思いのことを書いています。
今年はこのグラレコアドベントカレンダーが大人気で!ここで参加しているのはパート2版です。1のこちらも併せて皆で楽しみましょー!
グラフィックレコーディング Advent Calendar 2019
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「ダムタイプ|アクション+リフレクション」を見て思う、介在し続けること
「ダムタイプ」という存在が、量感を持って目の前に迫る
バブルと言われたあの時期に、なぜここまで時代に飽きて遠ざかるようなパフォーマンスをしていたんだろう。何を表現したかったんだろう。
「ダムタイプ|アクション+リフレクション」
(ちゃんとサムネイルひろってー)
www.mot-art-museum.jp
これまでのコンテンポラリーアートとして知られる数々のパフォーマンスを、インスタレーションや映像でたどる展示。
中心人物であった古橋悌二氏が無くとも在り続ける。
時間の速さに縛られず、その時、その場所で活動している。
でも残念ながら舞台関連の情報として「ダムタイプという集団がいてね。」と伝え聞くだけで。本物を目の当たりにできないまま本展示を知りました。
ああ、やっと見られる! 下知識・情報もろくに無く、そんな気持ちだけ。
過去に何かで見た舞台の様がとても鋭くて、でも有機的で何か刺さるものがあった、という記憶だけが頼りでした。
鑑賞を終えた今
肉感を削いだ無機質な装置に見えるインスタレーションに身体を置くことや、映像・テキストを通して彼らを追いかけることができた。
「Playback」の装置に入り込んだときから感じた、他人との間に自分が介在することに、感覚がどんどん敏感になっていく。関係性や内在するものを、感じたり離したり。
人は社会や世界によって形作られていることを、インスタレーションの中で感じながら、それだけだと受け容れたくはないのかもしれない。個として内側からも在りたいはずだと思いながら。
「LOVERS」は、偶然ひとりきりで見ることができた。
束の間の抱擁。消えていく存在を眺めながら、手から色んなものが溢れるような気持ちになる。
私たちはどこまでも一方的に分かろうとすることしかできないのか?
分かち合うことは幻想なのか?
その抱擁は、何を包んだのか?
相手? それとも自分であったのか。
自分を包まずに、誰かを抱擁できるんだろうか。
一生どころか、どうしても何度でも、多生に介在し続けるんだろうな。そうやって巡るものに少し恐れを感じる。でも生きる限り、関わり合いながら在りたい。
映像やインスタレーションを通して、ダムタイプが表していた瞬間的、断続的な交錯。それは精神性・身体性、両方に結ばれている。どちらが欠けても成り立ちそうにないけど、身体性にぐっと寄せてる。静かな攻撃性と、磨き上げきるという気概が見える。
気付くと後でふぅと息をつくほど、張り詰めて見ていた。ピリピリして、なんだか気持ちが良い。
並ぶ舞台図面も、装置に見えてくる
簡略化されていて整然としてますが、ひとつひとつ、結構えぐい。
学生の頃は舞台(セット)を作ることに憧れて、装置のスケッチやイメージを膨らませては、セットをベースに合う脚本は何だろうかと考えたりしていました。
舞台は空白。
何もない、もしくは制約の中で、どう描いていくか?
これらの装置は、簡易なようでいて、パフォーマーの身体性にどこまでも挑戦するようでした。死なす気か? と思わなくもないけれど。互いの領分のギリギリを攻めあっていたのかなぁ。挑戦をふっかけながら、信頼して委ねている関係性って最高。
実際どうだったか知る由もないですが。もしそうであったなら。
パンフレットや冊子といったアナログメディアにも、削がれたデザインや、アヴァンギャルド感、急にレトロ調になるような様々な見せ方が混在する。その時々で表したいものを突き詰めているようで、好きな混沌。
介在している、させられている、気付いたらそこに居る。
関係性とはなんだろう? 理由は後から付いてくるのかな。
展示タイトル「アクション+リフレクション」
文字通り、行われたパフォーマンスというアクションと、そのリフレクション(反射・内省)を切り分けながらも並行して行われている展示。
物理的なリフレクションとして、大型映像展示の真向かいに、舞台装置として床張りに使われていた鏡の面が展示されている。まさに反射。
装置としては床にあったはずのものが、展示としては壁面へと再編されて、更にクラクラしてくる。
踏み跡が残る鏡面に、紡ぎ直された映像が映り込み。行き交う人もまた映り込むし、光を遮る。どちらも違う面に響き合っているリフレクション。
非物理のリフレクションは、展示自体もそうだけど、鑑賞側がその瞬間瞬間に感じていたことにも起きている。
私の場合はそれを描き留めながら、ノートを見て再び飲み込みながら考えて。これもリフレクション。どこまでも続きそう。
※ちなみに展示室では鉛筆のみ使用可。ペンで書いていたら鉛筆差し出して頂きました。うっかり作品や環境を汚しかねず、申し訳ないです……。
何周目かわからない「さて、身体性とは?」という疑問
これだけのパフォーマーが、身体という一種のメディアを利用して表現していたのは、どこまでも繋がり得る/得ないものがある、ことかもしれない。今回は言葉を介在させない抽象的な視覚言語としての身体性を体感できた。
人の存在、その様々な側面。その点が集合体になった時、世界が見えてくるのかも。
存在の重さはどこで得られて、いつその手応えや反応を手に入れられるんだろう。
そんなことを考えながら、儚いけれど連綿と続く多生の触れ合いを、じっくり堪能できました。
VERTIGO 森山未來×KAITO SAKUMA a.k.a BATIC×岩本幸一郎 @VACANT
観てきました。これは模索ということもあって、実験やプロトタイプの更に手前なのかな。
Installation&Performance:
VERTIGO めまい
情報化社会において「個人を取り戻すこと」にまつわる模索
森山未來×KAITO SAKUMA a.k.a BATIC×岩本幸一郎
自分だけを愛し続け、そこから脱却することなく身を滅ぼしたギリシャ神話における少年、ナルキッソス。もし彼が、水面に映る“像”は単なる自分の顔に過ぎないと気づいたとしたら、自分自身を愛し続けたまま生きながらえることができたのだろうか?
ナルキッソスの物語を参加者も倣っていく
今回のテーマになっているナルキッソスの物語。このインスタレーション&パフォーマンスを通じて、会場内を自由に回ることで、私たちもいち「ナルキッソス風」な参加者として体験ができる。
水盤や、そこに沈む貝。吊られた写真(森山未來さん扮するナルキッソス)、会場を分断する巨大な透明アクリル板、置かれた本、明滅する一文。
それらを捉えながら、自己投影を感じたり見たりしながら、ぐるぐると会場をさまよう。
アクリル板から伝わる、音の触感のインスタレーション
会場を分断するように吊られた大判のアクリル版。これは今回のナルキッソスの物語に寓せた「水鏡の像」を観客に体験させる仕掛けなのかと思ったら、実は会場内にひろがるサウンドはここから発生していた。
ただ、会場のサウンドとは別に骨伝導で聞こえる音があって、耳を直にアクリル板にくっつけることで、きれいなノイズや会場音に混ざり合うような別のサウンドが聞こえてくる。意外と音量も大きい。
耳をつけた時のサウンドは、ひんやりしたアクリルと併せてなぜかとても気持ちがよかった。もっと耳をくっつけていたかった。人にくっついて心音を聴くのと似た心地よさ。
一歩ごとに緊張感が増すPerformance
2Fにある会場へ森山未來さんが階段を登ってくる音から、徐々に会場の緊張が高まる。
一歩が鳴らす靴音の硬さ。張りのある声。会場で更にエコーする声は、意味を知ると切ない。水盤に顔を沈め、自分にどんどん酔うナルキッソスが深くなっていく。
「ナルシシズム (自己陶酔、自己愛) 」の語源であるギリシャ神話の美青年「ナルキッソス」と、そのナル キッソスに思いを寄せる妖精の「エーコー」。彼女は肉体を失い、他者の声を繰り返すこと (エコー) のみを許された声だけの存在。ある日、ナルキッソスは水鏡に映る自分の姿に恋をし、自分だと気付かぬまま愛の言葉をかけ続け、その言葉はエーコーによってあたかも水面に映る彼自身が返答しているかのように虚しく響き渡ります。そんな問答の末、ナルキッソスはその場から離れられなくなり、満たされない思いにやつれ果てて身を滅ぼしてしまいます。
一歩大きく踏み出した後からは、森山さんのパフォーマーとしての真価が発揮され、真横に脚を踏み広げながら重心を落としていくその一連の身体の動きだけで「得難い……ありがとうございます……。」ってなるぐらい、身体のエネルギーが会場に満ちてる。
動きの都合上、ほぼゼロ距離みたいなところにいらした時は思わずそっと一歩引きつつ「邪魔になる!」と息を止めたぐらい。
エコーに自分を問われるほどに、ナルキッソスの自我が崩されていくようなパフォーマンス。
随分前にメタルマクベスの舞台で観て以来だったので、研ぎ澄まされた身体性にただ圧倒される時間。
VERTIGOとナルキッソスの水鏡
空間に漂う音の中、アクリル板に映る自分に惹かれながら、じたっと耳を付け、身体で音を感じる様。何かこう、感受性が振り切れそうで、ちょっと遠ざかりたくなるほど。
色っぽいとかセクシーとかそういう部類なのかもしれないけど、妖艶というのでもない、なんかもっと健康的だけど淫靡なやつ。語彙よ!
語るのも無粋な気がしてきた。
身体を研ぎ澄ませること
基本となる身体づくりや、身体の使い方を、コンテンポラリーダンスの中でこれでもかと研いだ人の一人芝居。存在感に圧倒されるだけではなく、空気をも変えていく、混ぜて問いかけすらしてくるようで、まだ咀嚼しきれない。
ただ一つ再確認になったのは、身体性をもう少し高めたいんだってことでした。
前回のブログでも同じこと言ってるけど、時期や季節関係なかったな。ダンサーになりたいわけでは無いんだけど、いつでもバランスが取れている、軸のある中空の身体が欲しい。それはファシリテーターとして場に関わる時に、全体を受け容れてホールドする力になるし、その感覚を研ぐことにもなるからだと感じてます。
友達に勧められたコンタクトインプロビゼーション、一度行ってみようかな。
NHKバレエの饗宴で観た「bolero/忘れろ」が忘れられない。
ダンスは言葉が無いわけじゃない。セリフがあってもいい。ダンスをしながら喋っていてもいい、語っても良いんだなぁ。
あっ、だから「談ス」なのか!! と、帰宅して何時間も経ってからやっと気付いた。
「NHKバレエの饗宴2019」みどころを徹底紹介~日本のバレエの“いま”を味わい尽くそう! | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス
バレエのボレロといえば、ベジャール振り付け。許可をしたダンサーにしか踊ることが出来ないものがTHE本家で、唯一無二かと思ってました。それぐらい踊ることへの制約があるものだと。(あの振り付けの印象が強すぎる)
※あの振り付け ↓
www.youtube.com ※ギエム版を貼りたいがそうもいかず、公式的なところで上がっているものを……。
これはその王道を見据えながら刷新していくような試みで、クラシックバレエと同じ公演で観られるなんて、筋金入りではない身としてはありがたいイベントです。
さて。初めて観た大植真太郎さん・辻本知彦さんの試みにまっさきに笑いが出てしまった。シルク・ドゥ・ソレイユのクラウンのように、幕前から舞台上にお二人+もうお一人がいて、舞台装飾の設営をしながら会話がなされている。「まだ本番始まってないですからね、拍手しなくてもいいんですよー」などと言いながら、衣装を着るところまで魅せながら楽しませてくれる。(手を使わずにパンツを履くアレが会場のあちこちにいるお子様方に大ウケ)
ボレロはボレロ
ボレロは恙無く始まった。一定のリズムで進行するおなじみのメロディとは対象的に、舞台上の男性二人はああでもない、こうでもないともぞもぞ話すように、身体を大きく交わして、打ち鳴らしている。組体操のようでもあり、ブレイクダンスの要素もあり。
「よい……っしょー!」「はっ」「なんで!」と、今振り付けを考えているの?即興でやってるの? と思うような動きと会話。全て振り付けとして考えられているものだということを知っていたとしても、可笑しくなる。
やんややんやと、2人の男が互いに乗っかり、場所を奪い合い、引っ張り合い、をしている中にも、たまにするっと混ざってくるベジャール振り付けの欠片。
当たり前だけど、ベースを理解して解釈した上で生み出されていることなんだよなぁ……。
圧倒的な身体能力に裏付けられた演目には、振り付けを通した新解釈と、自分たちの試みである「談ス」の面白さがたっぷり。形がないものへの楽しみ方を広く教えてくれる今回の公演に、大きく拍手を贈りました。
フレームから逃れられないもどかしさ
改めて舞踏、ダンスの面白さに気付いたものの。ダンスには身体表現だけじゃなく感情表現もあるのに、なぜか言葉は無いと思いこんでたことを、ちょっと残念に思ってる。散々リフレーミングだと聞いたり言ってる割にこれかー。長く染み付いたものにこそ、このフレームの中にはまり込んでいることを思い出さないことには、なかなか逃れられない。この業のようなものから、とっとと卒業をしたいものです。
「セレナーデ」についても
他の演目がクラシックバレエ、アブストラクトバレエという中に、このお二人のコンテンポラリーダンス。圧倒的に異質でありながら、親しみやすさを持った演目があったおかげで、対比まで楽しめたのも面白いポイントでした。
で、そのアブストラクト。バランシン振り付けのセレナーデは、音楽にうっすらとしたストーリーが載ったようにみえるけれど、wikipediaによるとこういうことだそうで。
なんだか美しい教材のよう。
筋のない作品ではあるが、男女間の微妙な感情の流れや終盤に1人の女性が男性たちに高々とリフトされて舞台袖に消えてゆくシーン(バランシンはこれを「天使のエピソード」と呼んだ)など、観客にいくつかの物語を暗示する[9][15][20]。ただし、この作品の本質は、暗示される物語やエピソードを観客に示唆することではなく、最初は未熟なダンサーたちがバレエの技術を習得していきながら洗練され、変貌を遂げる過程を見せることにある[15]。月明かりのような照明や、バランシンがその作品中で多用する照明を当てただけで背景画などのないバックドロップ[21]や、簡素な衣装などが醸し出すロマンチックで清廉な雰囲気が好まれ、バランシン・バレエの代表作として評価を受けている[8][17][22]。
未熟で不揃いなところから始まり、何度もなぞっていく間に美しいカタチを成す。
守破離の「守」のひとつの美しい方法だなぁ。
Youtubeでセレナーデを探すと、青背景・青衣装だったことにも納得。そこに意味を持たせずに成長を追えるんだ。
春になると感じる身体性への焦りのような感情
ここ数年、春になると身体表現や身体性の再確認をしたくなる、どちらかというともう一度これを取り戻さないと!という焦りに近い感情が出てくる。なんでだろうなー。様々なものが新しく始まる雰囲気に、ちょっとソワソワとする時期だから? 何か手応えがあるもので軸足や足元を感じたくなるのかもしれない。
身体性については、一度インプロのワークショップに参加して以来、飽き性の自分には珍しく、ずっと消えずに残る関心がある。実際に仕事の中で試したりもしているし、大駱駝艦のメンバーのワークショップに行って、身体を身体のままに操ることに触れられたりもした。
これからも、意思や意図と切り離したり繋げたり、実験できるように身体性に触れ続けていきたいという春の宣言です。
そこに言葉があってもいいし、描くことも、きっとあり。