「ダムタイプ|アクション+リフレクション」を見て思う、介在し続けること
「ダムタイプ」という存在が、量感を持って目の前に迫る
バブルと言われたあの時期に、なぜここまで時代に飽きて遠ざかるようなパフォーマンスをしていたんだろう。何を表現したかったんだろう。
「ダムタイプ|アクション+リフレクション」
(ちゃんとサムネイルひろってー)
www.mot-art-museum.jp
これまでのコンテンポラリーアートとして知られる数々のパフォーマンスを、インスタレーションや映像でたどる展示。
中心人物であった古橋悌二氏が無くとも在り続ける。
時間の速さに縛られず、その時、その場所で活動している。
でも残念ながら舞台関連の情報として「ダムタイプという集団がいてね。」と伝え聞くだけで。本物を目の当たりにできないまま本展示を知りました。
ああ、やっと見られる! 下知識・情報もろくに無く、そんな気持ちだけ。
過去に何かで見た舞台の様がとても鋭くて、でも有機的で何か刺さるものがあった、という記憶だけが頼りでした。
鑑賞を終えた今
肉感を削いだ無機質な装置に見えるインスタレーションに身体を置くことや、映像・テキストを通して彼らを追いかけることができた。
「Playback」の装置に入り込んだときから感じた、他人との間に自分が介在することに、感覚がどんどん敏感になっていく。関係性や内在するものを、感じたり離したり。
人は社会や世界によって形作られていることを、インスタレーションの中で感じながら、それだけだと受け容れたくはないのかもしれない。個として内側からも在りたいはずだと思いながら。
「LOVERS」は、偶然ひとりきりで見ることができた。
束の間の抱擁。消えていく存在を眺めながら、手から色んなものが溢れるような気持ちになる。
私たちはどこまでも一方的に分かろうとすることしかできないのか?
分かち合うことは幻想なのか?
その抱擁は、何を包んだのか?
相手? それとも自分であったのか。
自分を包まずに、誰かを抱擁できるんだろうか。
一生どころか、どうしても何度でも、多生に介在し続けるんだろうな。そうやって巡るものに少し恐れを感じる。でも生きる限り、関わり合いながら在りたい。
映像やインスタレーションを通して、ダムタイプが表していた瞬間的、断続的な交錯。それは精神性・身体性、両方に結ばれている。どちらが欠けても成り立ちそうにないけど、身体性にぐっと寄せてる。静かな攻撃性と、磨き上げきるという気概が見える。
気付くと後でふぅと息をつくほど、張り詰めて見ていた。ピリピリして、なんだか気持ちが良い。
並ぶ舞台図面も、装置に見えてくる
簡略化されていて整然としてますが、ひとつひとつ、結構えぐい。
学生の頃は舞台(セット)を作ることに憧れて、装置のスケッチやイメージを膨らませては、セットをベースに合う脚本は何だろうかと考えたりしていました。
舞台は空白。
何もない、もしくは制約の中で、どう描いていくか?
これらの装置は、簡易なようでいて、パフォーマーの身体性にどこまでも挑戦するようでした。死なす気か? と思わなくもないけれど。互いの領分のギリギリを攻めあっていたのかなぁ。挑戦をふっかけながら、信頼して委ねている関係性って最高。
実際どうだったか知る由もないですが。もしそうであったなら。
パンフレットや冊子といったアナログメディアにも、削がれたデザインや、アヴァンギャルド感、急にレトロ調になるような様々な見せ方が混在する。その時々で表したいものを突き詰めているようで、好きな混沌。
介在している、させられている、気付いたらそこに居る。
関係性とはなんだろう? 理由は後から付いてくるのかな。
展示タイトル「アクション+リフレクション」
文字通り、行われたパフォーマンスというアクションと、そのリフレクション(反射・内省)を切り分けながらも並行して行われている展示。
物理的なリフレクションとして、大型映像展示の真向かいに、舞台装置として床張りに使われていた鏡の面が展示されている。まさに反射。
装置としては床にあったはずのものが、展示としては壁面へと再編されて、更にクラクラしてくる。
踏み跡が残る鏡面に、紡ぎ直された映像が映り込み。行き交う人もまた映り込むし、光を遮る。どちらも違う面に響き合っているリフレクション。
非物理のリフレクションは、展示自体もそうだけど、鑑賞側がその瞬間瞬間に感じていたことにも起きている。
私の場合はそれを描き留めながら、ノートを見て再び飲み込みながら考えて。これもリフレクション。どこまでも続きそう。
※ちなみに展示室では鉛筆のみ使用可。ペンで書いていたら鉛筆差し出して頂きました。うっかり作品や環境を汚しかねず、申し訳ないです……。
何周目かわからない「さて、身体性とは?」という疑問
これだけのパフォーマーが、身体という一種のメディアを利用して表現していたのは、どこまでも繋がり得る/得ないものがある、ことかもしれない。今回は言葉を介在させない抽象的な視覚言語としての身体性を体感できた。
人の存在、その様々な側面。その点が集合体になった時、世界が見えてくるのかも。
存在の重さはどこで得られて、いつその手応えや反応を手に入れられるんだろう。
そんなことを考えながら、儚いけれど連綿と続く多生の触れ合いを、じっくり堪能できました。